Tuesday

日本「原子力の神話時代」

マッカーサーに建白書を提出
今日は,日本で原子力予算が生まれる,いわば神話時代の話を申し上げたいと思います。
私は国会議員になりました当時から,日本の科学技術振興に強い関心をもっておりました。科学技術を盛り返さなければ,この国は復活しないという信念があったからです。

そのきっかけとなったのが,昭和20年11月にマッカーサー司令部が,仁科芳雄博士のサイクロトロンを品川の沖に沈めたことです。これを新聞で読んだ時に,アメリカに対して憤りの気持ちがこみ上げてきました。サイクロトロンは平和利用の目的で,仁科博士が研究を続けられてきたものでした。アメリカは,日本を四等の農業国家にするつもりだなと感じたものです。

このため私は政治家になり,占領政策が終わる間際に,マッカーサーに対して占領政策に対する感想を述べた文書を提出しました。「Presentation to general MacArthur」という題で「マッカーサー建白書」と称しておりました。

昭和25年にアメリカで,民主党のコーナリー外交委員長と共和党のタフト上院議員に会った際に,日本のことをいろいろ聞かれ,「いずれ手紙で細かく紹介します」と申し上げました。帰国後にマッカーサー政策の良い面と悪い面と,私の希望を英文にして航空便で送った。その翌日,私はそれを持ってマッカーサー司令部に行き,国会課長のウイリアム博士に会い「これをマッカーサーに読ませてくれ」と言いました。しかし「占領下の国民がマッカーサー司令部に対してこういう文書を提出することは認めない」と言って受け取らない。そこで「この手紙はタフトとコーナリーにも航空便で送った」と言ったら,ウイリアムは顔色を変えて読み出した。それからあわてて,文書をマッカーサー司令部の部屋のほうに持って行った。

このことは産経新聞が取材して記事にもなりました。「マッカーサーはそれを受け取り立って読んだ。読んでいるうちに激怒して破って捨てようとしたが,表紙が厚くて破ることができず,くず紙箱からぴょんと飛び出した」と,産経新聞には書いてあります。その原文は,アメリカのメリーランド大学に保管してあります。

なぜマッカーサーは怒ったのか。例えばその中に,「如何なる聖将といえども,近代的国民を5年以上にわたって統治することは不可能である」云々と書いてあった。これがタフトとコーナリーに渡ったら,自分の治績が批判される。大統領選挙に出ようとしていたマッカーサーは,それを恐れて怒ったのだろうと私は想像しています。前日に彼らに送ったのは,実はマッカーサーにこれを読ませるためです。そのころから謀略には長けていたと,我ながら思っております。

その後,日本との講和条約にも来たダレス特使にも会って,文書を渡しました。ダレスが注目をしたのは,講和条約の中で原子力の平和利用と民間航空機の製造保有を禁止しないでくれという項目が入っていることでした。彼は私を見てニヤッとしましたね。それは「お前は日本を近代工業国家にしたいと言うのかね」という意思表示ではないかと私は思いました。


原子力予算の成立前夜

その後,私はアジア代表としてアメリカのハーバード大学のキッシンジャー博士が主催するインターナショナル・サマー・セミナーに派遣されました。世界中の文化人やジャーナリスト,政治家が集まり,ハーバードのドミトリーに2ヵ月間宿泊して議論をしました。

昭和28年のことで,戦後の世界をどうするかという議論でした。それが終わり,日本に帰る前に立ち寄ったニューヨークで「今朝の新聞にアイゼンハワーが原子力政策を変えたと書いてある」と地元の財界人が私に言った。そこには「Atoms for Peace」と書かれていた。今まで軍事利用目的であった原子力の情報を民間に移譲するとともに,原子力産業会議をつくって民間で本格的にやるということが新聞に出ていた。

私はそれを読み,日本も遅れては大変だと思いました。原子力は無限に発展する可能性のある世界です。特にエネルギーや放射線科学という面を無視してはならない。私は科学技術で,日本を再建しなければならないと思っていました。

そこで,帰りにサンフランシスコの総領事館に寄った時に,カリフォルニア大学のローレンス・バークレー研究所にいた嵯峨根遼吉博士を総領事館に呼び,「日本も原子力をやらなければいけないと思うが,先生はどう思いますか」と聞いた。先生は「私もそう思う。日本にはそういう科学技術の素養がある」と。「では,日本でやるにはどういうことをしたらいいですか」と聞いたら,3つあるとお答えになった。

1番目は,国策を確立して揺るがないものにすること。
2番目は,法律と予算をつくって国家的政策として確立すること。
3番目は,学者を精選すること。この3点を教わりました。

私は一日も早く,法律と予算をつくらなければならないと考えました。昭和28年の暮れごろから,桜内義雄,稲葉修,園田直という同志と相談し,その3人も承知しました。それで昭和29年度の予算審議に入りました。

当時は三党連立内閣で,私や桜内君は予算委員会の筆頭理事でした。自由党が「ばかやろう解散」後で過半数を制しておらず,自由党と改進党,日本自由党の連立で内閣が成立していた。私は改進党の筆頭理事として予算委員会に出ていました。予算の審議をどんどん進めて,最後の段階,今日採決するというその直前に,かねて桜内君などと打ち合わせ,党の幹部などごく少数に了解をとっておいた2億3,500万円の原子力調査費と1,500万円の鉱物資源の探査費,これを修正案として出したわけです。

しかし自由党が反対で予算を通らない。改進党も,自由党が反対するならわれわれも予算案に反対だと主張しました。しかし自由党はどうしても予算を通したいので,幹部が相談し,とうとう涙ながらに賛成して,その予算は通過した。これが原子力予算2億3,500万円です。しかし翌朝の新聞は,私を非難していた。「中曽根はまた原子爆弾をつくるのだろう」,「ヒロシマ・ナガサキを見ろ」,「また悪魔の爆弾が出てくる」など。朝日新聞以下の新聞の論説も「この予算を撤去せよ」というものばかりでした。

また茅誠司先生が伏見康治先生とともに学術会議を代表して「この予算案の実施を延ばしてくれ」と来られたことがありました。私は断りました。そうしたら憲法の教授をしていた稲葉修君が茅先生に向かって「君らが昼寝をしているから札束でほっぺたをたたいてやるんだ」と言いました。しかし,私が言ったことになってしまって,新聞でまた批判されました。

衆議院で通った法案は,参議院で成立しなくても,法案は30日たつと自然成立します。だから参議院では冷静になって,いかにこの予算をうまく使うかというように社会党も変わってきた。その結果,成立したのがこの予算です。これで日本の原子力の火が付く可能性が出てきた。政府も対策室をつくりました。

その最初の効果が,翌30年にさっそく表れました。ジュネーブで行われた原子力国際平和会議に,その予算を使って代表団を送ることができた。団長は工業技術院委員長の駒形作次博士,私と工学博士で社会党右派だった松前重義さんと左派の志村茂治さん,自由党の前田正男さんの4人が顧問になってジュネーブの会議に行き,いろいろな会議を傍聴しました。議長はインドのバーバー博士でしたが,インドも研究が相当進んでいるということも分かった。

この第1回会議の様子を見て,ほかの国も一生懸命にやっている。我々もこれを本気でやらなければいけないと思いました。それで4人で相談してフランス・ドイツ・イギリス・アメリカと見て回りました。

昼間は原子力研究所を中心に回り,政府関係者と原子力政策について意見交換をしました。夜は,普通は国会議員が行けば官邸でご馳走をしてくれる。けれどもそれを一切断って,ステテコ姿でホテルのベッドの上に座って,その日に見たことや,日本でどういう法律をつくるかということを毎日議論したものです。

そのようにして最後にアメリカのサンフランシスコまでやってきたころには,原子力立法8法案の要綱はだいたいできていた。30日間も一緒に各国を回り,毎日議論をしてそれを集約していったわけです。そして日本に帰ったら超党派で原子力合同委員会をつくろう,超党派で法案を提出しようと皆で相談していた。


超党派で原子力法案が成立


そして原子力基本法,原子力委員会設置法,科学技術庁設置法,原子燃料公社法,核燃料物質開発促進法,放射線障害防止法など8つの法案を,昭和30年の秋の議会に提出しました。この8法案をつくるには,法制局の力を借りなかった。見てきたのは我々だけで彼らに知識はないわけですから。われわれが衆議院法制局の立法の専門官管田君を使って法案をつくったわけです。各党もお前たちがやるなら間違いはないだろうと任せてくれた。それを議会に8つ一度に提出し,一議会で全部通してしまった。

この根本はどこにあるかと言えば,原子力基本法をつくるときに,「自主・民主・公開・平和利用」という原則を入れたことです。

これには社会党系の松前さんが熱心で「ぜひ平和利用を入れてくれ」と。もちろんわれわれも平和利用という考えをもっていたので,「自主・民主・公開・平和利用」を入れた。そういう経緯があって,超党派で法案の提出ができた。法案の作成をするときには,その後,社会党の委員長になった成田知己君や勝間田君なども一緒にやってくれたものです。そのようにして,まず原子力委員会設置法,原子力基本法と重要なものをまず通して,科学技術庁設置法をつくった。

こうして,いよいよ原子力研究所をつくらなければならないということになりました。その前に,原子力委員を選ばなくてはいけない。嵯峨根先生の言うことを聞いて超一流の人を厳選しなくてはいけない。そういうことでまずノーベル賞をもらった湯川秀樹博士なら文句ないだろうと。財界からは石川一郎さん,もう一人は湯川先生が「私の言うことを聞いて働いてくれる人が欲しい」ということで推薦された人にも入ってもらいました。

また科学技術庁初代長官は,正力松太郎さんにお願いしました。正力さんは当時,非常に原子力に熱心で,イギリスのコールダーホール型の小さい原子炉を輸入して国民に見せるという原子炉のPR を自分で実行してくださった。それくらい熱心だった。われわれはそのときも一介の議員だったが,正力さんに権限を与えて考えた。

まず原子力委員会を作るが,これはいわゆる八条委員会として,公正取引委員会のように権限,権威を持ったものにするのか。あるいはもう少し柔軟性を持たせ,普通の委員会でありながら,特に文章を入れた重いものにするか。そういう選択の中で,今は柔らかいものでないと駄目だということで普通の委員会にしました。

ただしこの決定を政府は尊重しなければならない。またこの委員会は自ら政府に発議して意見を言うことができる。そういう文章を2つほど入れました。これで原子力委員会が重重きを占めるものになった。また,原子力研究所を東海村につくることに決めました。さらに東海村で研究員として従事することが特別に認定された者は,報酬をそれまでの給料よりも1割高くするという法律を通した。こういう形でいい学者を集めようということもやりました。

今の社会ではこんなことできない。それは戦後日本の草創期,神話時代だからできたわけです。しかしそれが原子力の価値を高くし,またある意味における原子力ブームを起こした。だからスタートはものすごく良かったと私は申し上げる。その根本は,超党派でやったということと,松前さんの意見を私たちはよく聞いて協調しながらやった結果によるものだろうと思います。法律でも仕事でも人間の力というもので動いていくものだということを自分なりに考えたものです。

こうして原子力政策がスタートし,原子力委員会ができて長期計画を作ってもらった。今でもその背骨は生きています。まずは軽水炉,それから軽水炉に対するいろいろな改良型も加える。新型転換炉も出てきましたけれど,その余裕も中に入れておきました。それから高速増殖炉,核融合炉,そういう方向に進むと見ておりました。当面の目標は軽水炉までであって,軽水炉が安全確実にうまくやれるという段階になったら高速増殖炉に前進していく。そういう二段階制をとっている。

そして核融合炉は,すぐには手を付けられるものではないと判定して,将来の目標としました。これは当然のことで今でも生きていると思います。

その後,いろいろな改良が企てられ,いまは廃棄物処理の問題として,その残存エネルギーをどう使うかという配慮が進んでいます。ウランとプルトニウムの混合燃料であるMOX 燃料を燃やすプルサーマル計画もいよいよ動き出す段階になっている。

このような流れを考えてみると,あの原子力委員会が作った背骨は正しい。ただし残念ながら冬の時代があった。今は一陽来復(いちようらいふく)で再スタートの時代に入った。冬の時代はどうして起きたかというと,事故が起きたからです。「もんじゅ」の2次主冷却系配管からナトリウムが漏えいしナトリウム火災が発生しました。あるいはJCO 臨界事故に関する不始末。

私からすれば怠けた結果の事故が多い。事故は日本だけではなく1979年にはアメリカのスリーマイル島で起きています。86年にはチェルノブイリの事故が起きている。この約20年の冬の時代に各大学の原子力工学科,原子力学科は消えていってしまったわけです。

変化に対応するだけではなく,ときには流れを創る

しかし考えてみますと,政治も学問も時代とともに流れていく。そういう中にあって,これが正しいと思ったことは,歯を食いしばってでも持ち続けるところに学問や政治の値打ちがある。

私は昭和27年から憲法の改正を唱え,教育基本法の改正や防衛軍の設置を唱えて,そのころは右翼だ何だかんだと随分とたたかれたものです。それは私の不徳の致すところでもあります。あのころ(昭和27~28年)は,戦争に負けて,もうくたびれ果てていて,「まず飯を食わせろ」という時代だった。一国平和主義で国民は防衛や鉄砲どころではない。私もまだ新米の政治家で国家理念というものが先行して,国民の実情と政治をマッチさせる余裕がなかったという要素もあります。

しかし言っていることは正しかった。今までは政治家が主導して憲法改正に賛成しようと言っていたけれども,今はそうではなくて国民のほうが憲法改正賛成60%になっている。庶民から動かしている。これは2000年になってからの非常に大きな変化です。

これは世界的な変化です。1993年に共産ソ連が崩壊した。それまではアメリカ体系,ソ連体系,第三勢力体系とあって,日本はアメリカ体系の中にあって経済復興を行った。ところが共産ソ連が崩壊し,そんな体系はいらなくなってしまった。

そうなると自分一人で立ち上がらなければいけない。そういう意味で,ナショナリズムやアイデンティティーというものを要求したのが,93年以降の政界です。

EC がEU になり,通貨まで統一してアメリカに対抗する力をつくった。アメリカがイラクに兵隊を派遣しても,フランスやドイツやロシアは兵隊を送らない。アメリカに対するヨーロッパの独自性,アイデンティティーです。ソ連ではエリツインやプーチンが出てきてピョートル大帝のまねごとのようなことをやっている。そういう時代に変わってきた。

中国は,特に江澤民時代は反日ナショナリズムでもっているのであって共産主義でもっているのではない。アメリカはどうかと言えば,ニューヨークのテロの大災害を受けて烈火のごとく怒った。結局,アメリカ的世界観,アメリカ的政治,アメリカ的な生活。そういうものを世界中に広めなければアメリカという国家はやっていけないというようになった。そういうユニラテラリズムが,あのニューヨークの大災害から出てきた。それがイラク戦争やアフガニスタン侵攻になっていると私は見ております。

そうして冷戦が終わりナショナリズムの時代になったけれど,日本はその10年間,汚職だ,細川内閣だ,あるいは不動産借金払いだ,やれ学校が何だと漂流してしまった。ほかの国はナショナリズムでどんどん固まっているのに,日本だけは10年漂流していた。

そして「今までの既成秩序を破壊せよ」という国民の声が翕然と沸いたときに「自民党を破壊する」と言って出てきたのが小泉だ。小泉はそういう意味においては先見の明があった。

それ以来,今までの集団の時代から無党派の時代に変わった。今は医師会も自民党に票を入れはしない。みんな勝手にやってしまう。そういう時代に変わった。言い変えれば,粘土から砂の時代になった。砂は風が吹けばたまってきますからね。そういう中で小泉が大勝した。

彼は砂の扱い方がうまかった。ひと吹きして砂の吹きだまりを作ったようなものです。また風が吹けば別のところに砂は移動するのかもしれない。日本はそういう時代になってきている。それだけ民度が高いわけです。だからよほど指導者がちゃんとした経験を持ち,説得力を持って動かなければならない。

100年を見通した科学技術の政策づくりを

科学技術の問題にしてもそうです。我々の時には国家の体制がまだできていなかったから勝手に動き回って,いろんなことをやりました。今は内閣総理大臣が議長となり,学者の代表が入った科学技術会議があり,科学技術政策をどうするかという国家体系ができている。そのため既存の体系にしばられて自由がなくなり,独創性や発明性が失われたところもある。

例えば文教の改革で独立行政法人をつくったけれど,あれが果たしてよかったかどうか。関係者の中には自由が回復して予算でも何でも自分でやれるようになったという喜びを持っている人もいるけれども,一方では,研究の安定性が損なわれてきているという言う方もある。私はむしろそちらを心配しています。

しかしいずれにせよ,原子力の問題を考えてみますと,いよいよプルサーマルに入っていく。それと同時に高速増殖炉に突き進んでいる。計画を見ると,まず2025年くらいに実験炉を完成させるとある。「もんじゅ」があるにもかかわらず実験炉を完成させ,50年頃には実用炉,商業炉にしようという計画を作っています。そんなのろまなことでいいのかと私は思いますね。

外国はもっとどんどん進んでいくだろうと思います。高速増殖炉は炉心の構造や材料などいろいろな問題がありますが,ある程度,見当はついています。ですから学者の研究力とこれを押す国の財政力を結び合わせて,少なくともある見通しができる段階までの間にものをつくっていかなくてはいけない。それが当面,直面している問題です。

その前に,プルサーマルが成功することは間違いないと思われるわけです。そのほかに核融合炉については,国際熱核融合実験炉をフランスと取り合いをして立地場所を取られたけれども,実質的には六ヶ所村あるいは東海村にしかるべきものを造る。またそのフランスの所長には日本人がなるというようになってきています。

ある意味において,負けてもそんなに損はしない状況になっています。これはIT の問題です。これも日本はそれ相応の情報は入手できるし,みんなで養成していけば世界的な学者が育つ可能性もある。高速増殖炉と核融合炉が次の目標としてある。それに向かって日本全体がここでもう一回,引き締めをやって,第二のスタートをすべき段階です。原子力の冬の時代はもう終わったのだから。

嵯峨根先生が私に言われた,国策をしっかり立てろ,法律と予算を付けろ,良い人材を見つけ変なものを入れるなという三原則。まさにそれを新しく前進させた形でやる段階がきたと思っています。

ご清聴,ありがとうございました。


著者紹介
中曽根康弘
大正7年生。昭和16年東京帝国大学法学部卒業後,内務省に入省。昭和22年衆院議員に初当選,昭和34年に科学技術庁長官,57年から62年まで首相を務めた。

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